俳優はカウシャリヤー・プラーナンドゥ(කෞශල්යා ප්රනාන්දු Kaushalya Fernando)、チャミンダ・サンパット・ジャヤウィーラ(චමින්ද සම්පත් ජයවීර Chaminda Sampath Jayaweera)、ガエーシャ・ペレーラー(ගයේෂා පෙරේරා Gayesha Perara)らが出演した。
この映画(オランダの助成金により制作、海外で数々の賞を受賞)は、スリランカの内戦を背景に、チャミンダ演ずる政府軍兵士とガエーシャ演ずる村の女性との恋愛、妊娠、中絶(結局中絶可能な時期を過ぎていたためできなかった)、兵士の駐屯地の異動、捨てられた女性による復讐、「タミル・イーラム解放の虎」支配下のタミル人地域における状況、解放の虎にお金を要求され殺害されるタミル人一家、夫のいない子だくさんの家族のために途方に暮れるカウシャリヤー演ずる女性の不倫、それを知った息子による母親殺し、兵士と娘の関係、妻との不倫関係を知った父親の自殺を題材にとりあげている。
2010年に製作された映画にもかかわらず、スリランカ国内で初めて上映されたのは2013年7月11日のフランス大使館主催の映画祭であった。だが、すぐにスリランカ政府により上映禁止になった。(イギリス
BBC http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-23328665,
http://www.emirates247.com/news/sri-lanka/sri-lankan-government-bans-flying-fish-action-against-makers-2013-07-20-1.514851)
政府軍兵士のセックスシーン、夫のいない女性のセックスシーン、銃を持ち狙いを定める僧侶のシーン、村を守るために村人に配布された銃による自殺のシーンなど、様々な問題描写を含む。
冒頭シーンは並んで立っている妊婦たちのお腹のアップ、 中途には廃墟と化した建物の壁をバックにしたセックスシーン、更に2件の殺害シーン、1件の自殺のシーン、1件の復讐シーン(男性器切断)、最後は運転手のいない自走するバスに乗っている母親殺しの少年と兵士に復讐した女性のシーンで終わる。リアクションの連鎖が最後にはどういう結末を迎えるのか。内戦中のスリランカの最前線の村の閉塞的な雰囲気が重く迫ってくる。
ところで、シッダールタ王子とヤソーダラー姫の話が3度出てくる。まず最初は政府軍兵士と村の娘がセックスした後に、次の会話が交わされる。
"මං ඔයාව දාලා යන්නෙ නෑ."
"බුදු වෙන්න හිතාගෙන වුණත් සිද්ධාර්ථ කුමාරයා යසෝධරා දේවී දාලා ගියපු බව මම දන්නවා. ඒ අය අපි වගේ නෙවෙයි. ආත්ම ගනන් පෙරුම් පුරපු අය."
「お前を棄てていかないよ」
「悟りを開こうと考えて、シッダールタ王子はヤソーダラー姫を棄てて行ったことを知っている。彼らは私達とは違う。どの生まれ変わりでも一緒にいようと誓った人達なのよ」
何が違うと言っているのか。シッダールタ王子らにあるような強い結びつきは我々にはないと言っているのだ。
更に、貯水池で沐浴をしている場面での次の会話。
"දන්නවා ද? සිද්ධාර්ථ කුමාරයා
දාලා ගියත් යසෝධරා දේවී, හැමදාම සිද්ධාර්ථට ආදරෙන් හිටියා."
"මං නම් දාලා ගියොත්, මරනවා."「知っている?シッダールタ王子に棄てられてもヤソーダラー姫は毎日シッダールタのことを想っていたって」
「私だったら、棄てられたら殺すわ」
ここでも両者の違いが浮き彫りにされる。
3度目のシーンは、僧侶と女性との会話。
"වාසනා,
මොකද මේ මූණ තඩිස්සි වෙලා."
"අඬපු හින්දා, හාමුදුරුවනේ.""ඇයි? පරාක්රමලා ගමෙන් ට්රාන්ස් වෙලා ගිහින් හින්දා ද?"
"ඒක ගියෙ මගේ බඩට දරුවෙකුත් දීලා."
"වාසනා, සිද්ධාර්ථ කුමාරයා යසෝධරා දේවියව දාලා ගියහම, යසෝධරා දේවිය අඬුවාද ? වෛර කළා ද? නෑ නේ. රාහුල කුමාරයා ඉපදුණා විතරයි, එතකොට. ඒත්, යසෝධරා දේවිය, රාහුල කුමාරයාව උස්මහත් කරලා ආපහු සාසනේටම පූජා කළා නේද?
"යසෝධරාට තිබ්බ දේවල් මට නෑ නේ, හාමුදුරුවනේ."
「ワーサナー、どうしたんだい、顔を腫らして」
「泣いたからです、お坊様」
「え?パラークラマらが異動になったからかい?」
「私のお腹に子を残してね」
「ワーサナー...シッダールタ王子がヤソーダラー姫を棄てて行ったからといって、ヤソーダラー姫は泣いたかい?憎んだかい?そうはしなかっただろ。ラーフラ王子が生まれた、その事実だけなんだよ。だが、ヤソーダラー姫はちゃんと育て上げ、ラーフラ王子が僧侶になるのを認めてあげたじゃないか(夫を憎んでいたら、夫と同じ道を歩む息子を止めていたはずだ)」
「お坊様、ヤソーダラー姫にあったものが私にはないんですよ」
再び違いに焦点が当てられる。ヤソーダラー姫にあって、自分にないものは何か?ヤソーダラー姫は正式に結婚をし、妻としての地位があり、たとえシッダールタ王子が去っても、その姫としての地位は揺るがず、財産は自分のものであり、お腹の子供も王子として育てられる。一方、村の女性であるワーサナーはどうか。兵士との関係は一時的なものであり、兵士もいつ死ぬかわからない。結婚して正式な妻としての地位を獲得したわけでもない。ヤソーダラー姫にあったものは何もないのである。
ワーサナーは相手の兵士の男性器を切り落とし、その関係を清算し、運転手のいない自走する行くあてもないバスに乗り込み、村から出ていくのである。
兵士も僧侶も、シッダールタ王子とヤソーダラー姫の関係になぞらえて、兵士と女の関係を捉え、女としての役割を押しつけようとするが、女はことごとくその図式を否定し、村から出ていくのである。
映画のタイトルである『飛ぶ魚(ඉගිල්ලෙන මාළුවෝ Flying Fish)』とはどのような意味なのか?
川をジャンプしながら遡上する魚という解釈であれば、上流から下流へと流れる川の流れに抗い、産卵するためにジャンプしながら遡上する魚の群れ。
その姿は、人の進む道とは逆の道を抗い進むこの映画の主人公達に重なるのだ。






