2013/12/16

ヤソーダラー姫にあって自分にはないもの -- යසෝධරාට තිබ්බ​ දේවල් මට නෑ නේ

 現在スリランカで上映禁止となっているサンジーワ・プシュパクマーラ(සන්ජීව පුෂ්පකුමාර​)監督作『飛ぶ魚(ඉගිල්ලෙන මාළුවෝ Flying Fish)』(2010)がネット上にアップロードされており、視聴可能である。

 俳優はカウシャリヤー・プラーナンドゥ(කෞශල්‍යා ප්‍රනාන්දු Kaushalya Fernando)、チャミンダ・サンパット・ジャヤウィーラ(චමින්ද සම්පත් ජයවීර​ Chaminda Sampath Jayaweera)、ガエーシャ・ペレーラー(ගයේෂා පෙරේරා Gayesha Perara)らが出演した。

 この映画(オランダの助成金により制作、海外で数々の賞を受賞)は、スリランカの内戦を背景に、チャミンダ演ずる政府軍兵士とガエーシャ演ずる村の女性との恋愛、妊娠、中絶(結局中絶可能な時期を過ぎていたためできなかった)、兵士の駐屯地の異動、捨てられた女性による復讐、「タミル・イーラム解放の虎」支配下のタミル人地域における状況、解放の虎にお金を要求され殺害されるタミル人一家、夫のいない子だくさんの家族のために途方に暮れるカウシャリヤー演ずる女性の不倫、それを知った息子による母親殺し、兵士と娘の関係、妻との不倫関係を知った父親の自殺を題材にとりあげている。

 
 2010年に製作された映画にもかかわらず、スリランカ国内で初めて上映されたのは2013年7月11日のフランス大使館主催の映画祭であった。だが、すぐにスリランカ政府により上映禁止になった。(イギリス BBC http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-23328665, http://www.emirates247.com/news/sri-lanka/sri-lankan-government-bans-flying-fish-action-against-makers-2013-07-20-1.514851)

  政府軍兵士のセックスシーン、夫のいない女性のセックスシーン、銃を持ち狙いを定める僧侶のシーン、村を守るために村人に配布された銃による自殺のシーンなど、様々な問題描写を含む。

 冒頭シーンは並んで立っている妊婦たちのお腹のアップ、 中途には廃墟と化した建物の壁をバックにしたセックスシーン、更に2件の殺害シーン、1件の自殺のシーン、1件の復讐シーン(男性器切断)、最後は運転手のいない自走するバスに乗っている母親殺しの少年と兵士に復讐した女性のシーンで終わる。リアクションの連鎖が最後にはどういう結末を迎えるのか。内戦中のスリランカの最前線の村の閉塞的な雰囲気が重く迫ってくる。

 ところで、シッダールタ王子とヤソーダラー姫の話が3度出てくる。まず最初は政府軍兵士と村の娘がセックスした後に、次の会話が交わされる。
"මං ඔයාව දාලා යන්නෙ නෑ."  
"බුදු වෙන්න හිතාගෙන​ වුණත් සිද්ධාර්ථ කුමාරයා යසෝධරා දේවී​ දාලා ගියපු බව මම දන්නවා. ඒ අය අපි වගේ නෙවෙයි. ආත්ම ගනන් පෙරුම් පුරපු අය​."
「お前を棄てていかないよ」
「悟りを開こうと考えて、シッダールタ王子はヤソーダラー姫を棄てて行ったことを知っている。彼らは私達とは違う。どの生まれ変わりでも一緒にいようと誓った人達なのよ」

何が違うと言っているのか。シッダールタ王子らにあるような強い結びつきは我々にはないと言っているのだ。

更に、貯水池で沐浴をしている場面での次の会話。

"දන්නවා ද​? සිද්ධාර්ථ කුමාරයා දාලා ගියත් යසෝධරා දේවී, හැමදාම සිද්ධාර්ථට​ ආදරෙන් හිටියා."
"මං නම් දාලා ගියොත්, මරනවා."
「知っている?シッダールタ王子に棄てられてもヤソーダラー姫は毎日シッダールタのことを想っていたって」
「私だったら、棄てられたら殺すわ」

ここでも両者の違いが浮き彫りにされる。
3度目のシーンは、僧侶と女性との会話。

"වාසනා, මොකද මේ මූණ තඩිස්සි වෙලා."
"අඬපු හින්දා, හාමුදුරුවනේ."
"ඇයි? පරාක්‍රම​ලා ගමෙන්  ට්‍රාන්ස් වෙලා ගිහින් හින්දා ද​?"
"ඒක ගියෙ මගේ බඩට​ දරුවෙකුත් දීලා."
"වාසනා, සිද්ධාර්ථ කුමාරයා යසෝධරා දේවිය​ව දාලා ගියහම​, යසෝධරා දේවිය​ අඬුවාද​ ​? වෛර කළා ​? නෑ නේ. රාහුල කුමාරයා ඉපදුණා විතරයි, එතකොට​. ඒත්, යසෝධරා දේවිය​, රාහුල කුමාරයාව උස්මහත් කරලා ආපහු සාසනේටම​​ පූජා කළා නේද​?
"යසෝධරාට තිබ්බ​ දේවල් මට නෑ නේ, හාමුදුරුවනේ."
「ワーサナー、どうしたんだい、顔を腫らして」
「泣いたからです、お坊様」
「え?パラークラマらが異動になったからかい?」
「私のお腹に子を残してね」
「ワーサナー...シッダールタ王子がヤソーダラー姫を棄てて行ったからといって、ヤソーダラー姫は泣いたかい?憎んだかい?そうはしなかっただろ。ラーフラ王子が生まれた、その事実だけなんだよ。だが、ヤソーダラー姫はちゃんと育て上げ、ラーフラ王子が僧侶になるのを認めてあげたじゃないか(夫を憎んでいたら、夫と同じ道を歩む息子を止めていたはずだ)」
「お坊様、ヤソーダラー姫にあったものが私にはないんですよ」

再び違いに焦点が当てられる。ヤソーダラー姫にあって、自分にないものは何か?ヤソーダラー姫は正式に結婚をし、妻としての地位があり、たとえシッダールタ王子が去っても、その姫としての地位は揺るがず、財産は自分のものであり、お腹の子供も王子として育てられる。一方、村の女性であるワーサナーはどうか。兵士との関係は一時的なものであり、兵士もいつ死ぬかわからない。結婚して正式な妻としての地位を獲得したわけでもない。ヤソーダラー姫にあったものは何もないのである。

ワーサナーは相手の兵士の男性器を切り落とし、その関係を清算し、運転手のいない自走する行くあてもないバスに乗り込み、村から出ていくのである。

兵士も僧侶も、シッダールタ王子とヤソーダラー姫の関係になぞらえて、兵士と女の関係を捉え、女としての役割を押しつけようとするが、女はことごとくその図式を否定し、村から出ていくのである。


映画のタイトルである『飛ぶ魚(ඉගිල්ලෙන මාළුවෝ Flying Fish)』とはどのような意味なのか? 

川をジャンプしながら遡上する魚という解釈であれば、上流から下流へと流れる川の流れに抗い、産卵するためにジャンプしながら遡上する魚の群れ。

その姿は、人の進む道とは逆の道を抗い進むこの映画の主人公達に重なるのだ。

2013/11/13

シンハラ語・タミル語・英語オンライン辞書


インターネット上で利用可能なオンライン辞書には以下のものがある。

1)シンハラ語と英語
Madura Online
(http://maduraonline.com/)

WWW.SinhaWAP.NET Sinhala/English Dictionary
(http://sinhawap.net/extra/dik/)
・英語による語義説明。
・シンハラ語の類義語表示。

2)シンハラ語とタミル語と英語
スリランカ政府公用語局のTri Lingual Dictionary
(http://www.trilingualdictionary.lk/index.php)
・検索ウィンドウに意味を知りたいシンハラ語を入力すると、その語を含んだ候補語彙が表示され、その中から更に別の候補語彙も選択することが可能。
・検索すると、他の2言語で意味説明が表示される。
・検索語の音声ファイルを聴くことができる。

2013/09/22

日本(ジャパーネ)とジャフナ(ヤーパネ)の混同 -- අම්මට නම් වෙලාවකට ජපානෙයි, යාපනෙයි පැටලුණා.

 シンハラ語を話すシンハラ人の中に日本とスリランカ北部のジャフナを混同する人がいると言ったら日本人は驚くだろうか。

 シンハラ語のベストセラー小説『කන්දක් සේමා kandak sema』(山の如し)の中に次の一節がある。

 අම්මට නම් වෙලාවකට ජපානෙයි, යාපනෙයි  පැටලුණා. (p.74)

  母はときどき日本(ジャパーネ)とジャフナ(ヤーパネ)がごっちゃになる。


 日本はシンハラ語では「ジャパーネ」(japaane)、ジャフナはシンハラ語では「ヤーパネ」(yaapane)と発音する。「ジャ」と「ヤ」は発音も似ており、しかもこの違いがあるだけで他は同じである。また、南部のシンハラ人にとっては北部のタミル人地域のジャフナは縁遠い国である。したがって、日本がどこにあるか知らない人にとっては、ヤーパネもジャパーネも大差はなく、混同しやすくなるのである。



2013/08/27

ウコンの力 -- කහ​

 この8月にスリランカを訪れていたとき、コロンボのヒルトンホテル(Hilton Hotel)からレイクハウス書店(Lake House)に向かう道沿いにある、老舗の映画館リーガル(Regal)で『ニキニ・ワッサ』(Nikini Wassa, August Drizzle)を見た。

 リーガルは映画館の入り口が開閉式の門で錠がかかっており毎日夕方6時開門。6時半から10分予告編、40分上映、5分休憩、続けて65分上映で、1時間45分の映画だった。

 この映画は2013年上映で、2012年のフランス、韓国、インドの様々な国際映画祭で賞を取っている作品だ。監督はアルナ・ジャヤワルダナ(Aruna Jayawardana)。主演女優はチャンダニー・セネビラトナ(Chandani Senevirathne)。好きな役者さんだ。

 この作品は、父の死により父の経営していた葬儀屋を継いだ適齢期を過ぎた女性に関わる性と生と死と暴力の物語だ。

 特に印象深かったのは、普段仕事や生活で用いるワゴン車が死と性と生と関わる場として象徴的に描かれているシーンだ。

 遠くに見える美しい岩山をバックに広大な貯水池で沐浴を終え、帰り道を歩む主人公。ふと見ると、自分のワゴン車が茂みの陰にある。ワゴン車はきしみ、揺れ、うめき声が聞こえる。更に近づくと、部下の男が彼女とセックスをしている。その行為を目撃し、興奮する主人公。その場を立ち去り、仕事場兼自宅に戻る。遺体にエンバーミングを施す作業台に背中を向けて座る。そして横たわり、仰向けになる。



 適齢期を過ぎた女性の性的衝動、孤独、死が場と横たわるという行為を通じて露わになる。

 物語は村にもう1軒ある商売敵の葬儀屋の策略による悲劇と、そして主人公の夢だった斎場の完成による公共性を持った希望により終わる。


 さて、本来のこの文章の目的を忘れていた。

「ウコンの力」

 父の仕事である葬儀屋を受け継いだ女性が店に行った時に、店の主人に無視されて、欲しいものが買えなくその場を去った後に、店の主人が従業員に行った言葉はウコン(කහ​)をまいておけというものだ。つまり、穢れを清めろということである。日本であれば、塩をまいておけというのに相当する。

 なぜ清めにターメリックが用いられるかというと、殺菌力があるからである。シンハラ人の友人の家にいたときに、虫除けにウコンを水で溶いたものを床にまいていたことがあった。

 殺菌作用を持つウコンには、日常への侵入を防ぐ力がある。

2013/07/18

とっておきの話 -- සිරිනාථ දන්නවද වැඩක්?

 シンハラ語には、相手の知らないであろう興味深いニュースを伝えるときに使われる前置き表現がある。

 前置き表現は"දන්නවා ද වැඩක්?"で、この言葉を聞いた人は"මොකද්ද වැඩේ?"で答える。その後で、とっておきの話をするのである。

 実際の例を見てみよう。
"සිරිනාථ දන්නවද වැඩක්?"
"මොකද්ද වැඩේ?" 
"උප්පැන්නෙ හැටියට මගේ නම සෝමවතී නෙවෙයිලු...මගේ නම ඩේසි සුසන්. මගෙ උප්පැන්නෙ තියෙන්නෙ එහෙමලු. අලුත් ඉස්කෝලෙ මට කතා කරන්නෙ ඩේසි සුසන් කියලා." (Iti Pahan, p.39)

「スィリナータ、知っている?」
「何のこと?」
「出生証では私の名前はソーマワティーじゃないって...私の名前はデースィ・スサン。出生証ではそうなんだって。新しい学校ではデースィ・スサンって呼ばれることになるのよ」

 上の場面においてソーマワティー(女性の地位の低さ、貧困、偏見の観点から人民解放戦線(JVP)が描かれた小説『灯明』(Iti Pahan)の主人公)は、新しい学校に行くために母親が自分の出生証を届けた際に自分の本当の名を知ることになる。とんでもない事実なんだが。

 スリランカでは、入学許可に必要な重要な書類として出生証がある。出生証が物語のプロットとなり展開していくものには小説以外にも映画作品がある。アソーカ・ハンダガマ監督の『ヴィドゥ』(Vidhu)がそれにあたる。


2013/07/11

「色」が「白」を意味するとき --මල්ලි වගේ පාට නෑ, නේද​?

 色を意味するシンハラ語はපාටである。ところが、次例のように肌の色が白いという意味で用いられる場合がある。

【弟夫婦に赤ちゃんが生まれたので、病院にやってくる姉二人。赤ちゃんが女の子だと知り、がっかりする。腕に抱いて姉二人が言う】
"මල්ලි වගේ පාට නෑ, නේද​?"
"ඔව් අනේ, මල්ලි වගේ නැහැ නෙ."  (『婚家』කුලගෙය Kulageya)​
「弟みたいに白くないよね」
「そうね、弟みたいじゃないね」

 ここではසුදු පාට​(白色)とは言わず、සුදු(白)という言葉を省略しても、පාට(色)という言葉だけで「白色」という意味が表される。なぜ白色と言わずに、白と理解されるのであろうか。

 例えば日本語で、「結果が出せるようにがんぱります」とスポーツ選手が言うと、「結果」というのは悪い結果ではなく、いい結果だと理解される。 仕事の性質上求められているのは、当然悪い結果ではなく、いい結果であるということが前提となっている。従って、「いい」という言葉を言わなくても理解されるのである。

 さて、上のような肌の色が問題となる場面においては何が前提とされるのか。シンハラ人の価値観では、肌の色が黒よりも白のほうが好まれるのが一般的である。従って、「色」という言葉を言うだけで、「白色」だと理解されるのである。

 次例も同様の例。
 සෝමේ ගමේ කාටත් වඩා පාටය​. (『灯明』ඉටි පහන් Iti Pahan)
 ソーメーは村の誰よりも色白だ。

 ところで上記の映画では実際は、姉の弟の肌は赤ん坊より浅黒い。実は、二人の姉は弟の嫁をよく思っていない。直接相手に言わずに赤ちゃんを利用して間接的に相手を揶揄しているのである。