シンハラ語には、相手の知らないであろう興味深いニュースを伝えるときに使われる前置き表現がある。
前置き表現は"දන්නවා ද වැඩක්?"で、この言葉を聞いた人は"මොකද්ද වැඩේ?"で答える。その後で、とっておきの話をするのである。
実際の例を見てみよう。
"සිරිනාථ දන්නවද වැඩක්?"
"මොකද්ද වැඩේ?"
"උප්පැන්නෙ හැටියට මගේ නම සෝමවතී නෙවෙයිලු...මගේ නම ඩේසි සුසන්. මගෙ උප්පැන්නෙ තියෙන්නෙ එහෙමලු. අලුත් ඉස්කෝලෙ මට කතා කරන්නෙ ඩේසි සුසන් කියලා." (Iti Pahan, p.39)
「スィリナータ、知っている?」
「何のこと?」
「出生証では私の名前はソーマワティーじゃないって...私の名前はデースィ・スサン。出生証ではそうなんだって。新しい学校ではデースィ・スサンって呼ばれることになるのよ」
上の場面においてソーマワティー(女性の地位の低さ、貧困、偏見の観点から人民解放戦線(JVP)が描かれた小説『灯明』(Iti Pahan)の主人公)は、新しい学校に行くために母親が自分の出生証を届けた際に自分の本当の名を知ることになる。とんでもない事実なんだが。
スリランカでは、入学許可に必要な重要な書類として出生証がある。出生証が物語のプロットとなり展開していくものには小説以外にも映画作品がある。アソーカ・ハンダガマ監督の『ヴィドゥ』(Vidhu)がそれにあたる。
සිංහල භාෂාව, චිත්රපටි හා ටෙලි නාට්ය Sinhala Language, Cinema, and Tele Drama
2013/07/18
2013/07/11
「色」が「白」を意味するとき --මල්ලි වගේ පාට නෑ, නේද?
色を意味するシンハラ語はපාටである。ところが、次例のように肌の色が白いという意味で用いられる場合がある。
【弟夫婦に赤ちゃんが生まれたので、病院にやってくる姉二人。赤ちゃんが女の子だと知り、がっかりする。腕に抱いて姉二人が言う】
"මල්ලි වගේ පාට නෑ, නේද?"
「そうね、弟みたいじゃないね」
ここではසුදු පාට(白色)とは言わず、සුදු(白)という言葉を省略しても、පාට(色)という言葉だけで「白色」という意味が表される。なぜ白色と言わずに、白と理解されるのであろうか。
例えば日本語で、「結果が出せるようにがんぱります」とスポーツ選手が言うと、「結果」というのは悪い結果ではなく、いい結果だと理解される。 仕事の性質上求められているのは、当然悪い結果ではなく、いい結果であるということが前提となっている。従って、「いい」という言葉を言わなくても理解されるのである。
さて、上のような肌の色が問題となる場面においては何が前提とされるのか。シンハラ人の価値観では、肌の色が黒よりも白のほうが好まれるのが一般的である。従って、「色」という言葉を言うだけで、「白色」だと理解されるのである。
次例も同様の例。
සෝමේ ගමේ කාටත් වඩා පාටය. (『灯明』ඉටි පහන් Iti Pahan)
ソーメーは村の誰よりも色白だ。
ところで上記の映画では実際は、姉の弟の肌は赤ん坊より浅黒い。実は、二人の姉は弟の嫁をよく思っていない。直接相手に言わずに赤ちゃんを利用して間接的に相手を揶揄しているのである。
【弟夫婦に赤ちゃんが生まれたので、病院にやってくる姉二人。赤ちゃんが女の子だと知り、がっかりする。腕に抱いて姉二人が言う】
"මල්ලි වගේ පාට නෑ, නේද?"
"ඔව් අනේ, මල්ලි වගේ නැහැ
නෙ." (『婚家』කුලගෙය Kulageya)
「弟みたいに白くないよね」「そうね、弟みたいじゃないね」
ここではසුදු පාට(白色)とは言わず、සුදු(白)という言葉を省略しても、පාට(色)という言葉だけで「白色」という意味が表される。なぜ白色と言わずに、白と理解されるのであろうか。
例えば日本語で、「結果が出せるようにがんぱります」とスポーツ選手が言うと、「結果」というのは悪い結果ではなく、いい結果だと理解される。 仕事の性質上求められているのは、当然悪い結果ではなく、いい結果であるということが前提となっている。従って、「いい」という言葉を言わなくても理解されるのである。
さて、上のような肌の色が問題となる場面においては何が前提とされるのか。シンハラ人の価値観では、肌の色が黒よりも白のほうが好まれるのが一般的である。従って、「色」という言葉を言うだけで、「白色」だと理解されるのである。
次例も同様の例。
සෝමේ ගමේ කාටත් වඩා පාටය. (『灯明』ඉටි පහන් Iti Pahan)
ソーメーは村の誰よりも色白だ。
ところで上記の映画では実際は、姉の弟の肌は赤ん坊より浅黒い。実は、二人の姉は弟の嫁をよく思っていない。直接相手に言わずに赤ちゃんを利用して間接的に相手を揶揄しているのである。
2013/07/09
メイド・イン・ジャパンが粗悪だと言われていた頃 -- අපේ රටේ කතාවක් තියෙනවා, ජපන් බඩු බාලයි කියලා.
昔、日本製は質が悪いと言われていた時代があった。そのことは、スリランカでも知られていた。そのことを示す台詞が1993年のH.D.プレーマラトナ監督作品の『婚家』(කුලගෙයKulageya)にある。
勤めを辞めて商売を始めた主人公ダヤス(ඩයස් Dias)が日本の商品を扱ってほしいと新規に持ち込むが、日本製が粗悪であることを理由に断れてしまう場面が次のシーン。
"මිස්ට් ඩයස්, මේ, අපේ රටේ කතාවක් තියෙනවා, ජපන් බඩු බාලයි කියලා. මම හිතන්නෙ නෑ, කවදාක්වත්
අපේ රටේ ජපන් බඩුවට
market එකක් තියෙයි කියලා."
මේ market ගැන මට කියන්න එන්න එපා. I have done better market research than you. I’m sorry. I’m sorry, Mr. Dias."
「ダヤスさん、スリランカにはこういう話があります。日本製は粗悪だと。スリランカで日本製にマーケットがあるなんて全く考えられませんよ」
「そう言わないでください。既にこれらの商品はヨーロッパではよく売れるようになってきているんです。特にアジアの国々ではとても人気があるんですよ」
「ダヤスさん、私が言っているのはスリランカの話ですよ。このマーケットについては私に意見するようなことはしないでください。市場調査はあなたよりもちゃんとやっていますから。申し訳ありませんが、お引き取りください、ダヤスさん」
日本製に対する評判が変わってきた頃ではある(1960年代頃か)。しかし、スリランカでは一部の人には評価されているが、まだまだ一般的ではない時代のことである。その時代の変革期に、一人のスリランカ人が日本製を評価し、販路を築こうとしたのである。そして、この話は物語の主題へと展開していく。
その後、彼を評価する友人に金主を紹介してもらい、ビジネスを拡大、成功をおさめる。しかし、生活が一変した状況を受け入れらない主人公の妻は、ある日突然夫と二人の娘を捨て、家を出ていく。しかし、本当にそうだったのか。本当の理由は何だったのか。結婚した娘夫婦との再会を通じて、この謎が解き明かされていく。
勤めを辞めて商売を始めた主人公ダヤス(ඩයස් Dias)が日本の商品を扱ってほしいと新規に持ち込むが、日本製が粗悪であることを理由に断れてしまう場面が次のシーン。
"මිස්ට් ඩයස්, මේ, අපේ රටේ කතාවක් තියෙනවා, ජපන් බඩු බාලයි කියලා. මම හිතන්නෙ නෑ, කවදාක්වත්
අපේ රටේ ජපන් බඩුවට
market එකක් තියෙයි කියලා."
"එහෙම කියන්ඩ එපා, සර්. දැනටමත් මේ
products west එකේ popular වේගෙන එනවා.
විශේෂයෙන්ම ආසියානු රටවල් හුඟක්
ජනප්රියයි."
"මිස්ට ඩයස්, මම කතා කරන්නෙ ලංකාව ගැන.මේ market ගැන මට කියන්න එන්න එපා. I have done better market research than you. I’m sorry. I’m sorry, Mr. Dias."
「ダヤスさん、スリランカにはこういう話があります。日本製は粗悪だと。スリランカで日本製にマーケットがあるなんて全く考えられませんよ」
「そう言わないでください。既にこれらの商品はヨーロッパではよく売れるようになってきているんです。特にアジアの国々ではとても人気があるんですよ」
「ダヤスさん、私が言っているのはスリランカの話ですよ。このマーケットについては私に意見するようなことはしないでください。市場調査はあなたよりもちゃんとやっていますから。申し訳ありませんが、お引き取りください、ダヤスさん」
日本製に対する評判が変わってきた頃ではある(1960年代頃か)。しかし、スリランカでは一部の人には評価されているが、まだまだ一般的ではない時代のことである。その時代の変革期に、一人のスリランカ人が日本製を評価し、販路を築こうとしたのである。そして、この話は物語の主題へと展開していく。
その後、彼を評価する友人に金主を紹介してもらい、ビジネスを拡大、成功をおさめる。しかし、生活が一変した状況を受け入れらない主人公の妻は、ある日突然夫と二人の娘を捨て、家を出ていく。しかし、本当にそうだったのか。本当の理由は何だったのか。結婚した娘夫婦との再会を通じて、この謎が解き明かされていく。
2013/07/04
人民解放戦線JVPの夢、革命による解放 -- මේ රටේ නිර්ධනයින්ට තියෙන එකම විමුක්තිය විප්ලවය
スリランカの人々の心に大きな傷跡を残したのは、人民解放戦線(JVP)の騒乱、タミル・イーラム解放の虎との内戦、インドネシア沖大地震による津波である。
この1970年代の人民解放戦線の騒乱を描いた小説にスミトラー・ラーフバッダ(සුමිත්රා රාහුබද්ධ Sumithra Rahubaddha)の『灯明』(ඉටි පහන් Iti Pahan)がある。 この小説は、1995年にテレビドラマ化され、放映されている(ネット上では視聴できないようだ)。
主人公のソーマワティー(සෝමවතී、写真左、ニルミニ・テンナコーン(නිල්මිණි තෙන්නකෝන් Nilmini Thennakoon)が演じる。右はワサンティ・チャトゥラーニーවසන්ති චතුරානී演じる母)は大学生になると、人民解放戦線のメンバーとなり、活動する。JVPは、同志を募り、勢力を拡大する方法の一つとして、一種の教育プログラムを作る。やさしい段階から始め、徐々にレベルを上げ教育していくのである。レベルの高い者が人を集め、グループを作り、次第に増やしていくのである。
その活動を通じて徐々にソーマワティーは、スリランカの貧富の是正を根本的に解決するのには、革命が必要だと考えるようになるのである。このことを示唆するのが以下のソーマワティーの言葉である。
"පන්ති පහට ගියාට පස්සෙ තමයි මම තේරුම් ගත්තෙ මේ රටේ විප්ලවයක් සිද්ද වෙන්නම ඕනෙ වග මේ රටේ නිර්ධනයින්ට තියෙන එකම විමුක්තිය විප්ලවය" (Iti Pahan, p.143)
「レベル5に上がってやっとわかったの、この国には革命が絶対必要だと、この国の富のない者たちが持つただ一つの解放が革命だと」
ソーマワティーは一時警察に捕まるが、釈放され、その後結婚、子を産み母となるが、悲劇的な最後を遂げてしまう。
あの時代の胸をかきむしる記憶は今もシンハラ人の中にあるのである。
この1970年代の人民解放戦線の騒乱を描いた小説にスミトラー・ラーフバッダ(සුමිත්රා රාහුබද්ධ Sumithra Rahubaddha)の『灯明』(ඉටි පහන් Iti Pahan)がある。 この小説は、1995年にテレビドラマ化され、放映されている(ネット上では視聴できないようだ)。
主人公のソーマワティー(සෝමවතී、写真左、ニルミニ・テンナコーン(නිල්මිණි තෙන්නකෝන් Nilmini Thennakoon)が演じる。右はワサンティ・チャトゥラーニーවසන්ති චතුරානී演じる母)は大学生になると、人民解放戦線のメンバーとなり、活動する。JVPは、同志を募り、勢力を拡大する方法の一つとして、一種の教育プログラムを作る。やさしい段階から始め、徐々にレベルを上げ教育していくのである。レベルの高い者が人を集め、グループを作り、次第に増やしていくのである。
その活動を通じて徐々にソーマワティーは、スリランカの貧富の是正を根本的に解決するのには、革命が必要だと考えるようになるのである。このことを示唆するのが以下のソーマワティーの言葉である。
"පන්ති පහට ගියාට පස්සෙ තමයි මම තේරුම් ගත්තෙ මේ රටේ විප්ලවයක් සිද්ද වෙන්නම ඕනෙ වග මේ රටේ නිර්ධනයින්ට තියෙන එකම විමුක්තිය විප්ලවය" (Iti Pahan, p.143)
「レベル5に上がってやっとわかったの、この国には革命が絶対必要だと、この国の富のない者たちが持つただ一つの解放が革命だと」
ソーマワティーは一時警察に捕まるが、釈放され、その後結婚、子を産み母となるが、悲劇的な最後を遂げてしまう。
あの時代の胸をかきむしる記憶は今もシンハラ人の中にあるのである。
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