家の裏側に通じる道を通って帰ってくる息子。息子が家に近づくにつれ、家の裏側に植えられたマンゴーの木々が見えてくる。家の裏側で仕事をしている母が息子に気づく。息子は腰を屈め両手で母の足を触り、母にあいさつする。母は、三宝、すなわち、仏(陀)、法(ブッダの教え)、僧(集団)による加護があるように祈りながら、息子をやさしく迎え入れる。母は息子が痩せたんじゃないかと心配するが、息子はいつも帰ってきたらお母さんはそういうんだからと言って否定する。母はそれでも気遣い心配するのである。スリランカの至る所で昔も今も交わされる親子の情愛である。
"අප්පේ. රත්නත්තරේ පිහිටයි. ඇදිලා ගිහින්, මයෙ පුතේ."
"ඒ අම්මාට පේන හැටි.
හැමදාම මං ගෙදර ආවම,
අම්මාට පේන්නෙ, මං ඇදිලා ගිහිල්ලා වගේ."
"නෑ, ඇදිලා ගිහින් තමා. මූණත් සුදුමැලි වෙලා."
「まあまあ。三宝の御加護がありますように。ずいぶん痩せたのね」
「お母さんにはそう見えるだけだよ。家に帰ってくると、いつもお母さんには痩せこけたみたいに見えるんだよ」
「いや、本当に痩せこけているよ。顔も青白いし」
そして、母の手助けをしながら、大学の寮の仲間が作った詩を披露する。詩には貧しい人たちの日常的な食べ物であるパンやレンズ豆などが登場する。そういった底辺のものがやがては偉くなるんだと詠うのである。
"කෝ දෙන්න.
"පාන්ම කාලා වෙන්ඩ වුනා.
"පානුයි පරිප්පුයි. අම්මා දන්නවා
ද, බෝඩිමෙ කොල්ලො හදලා තියෙන
කවි? පානුයි පරිප්පුයි
දවසක රජ වේවා. ගෝවයි අලයි මැතිවරු සිටුවරු වේවා."
"පිස්සු කොල්ලෝ."
「パンしか食べてないんだろう」
「パンとレンズ豆。お母さん知っている?寮に住んでいる学生が作った詩。パンとレンズ豆はいつか王様になりますように。キャベツとイモは大臣になりますように」
「ばかな学生さんね」
電気もない貧しい村。明日が満月の日。明るい月の光の中、息子は母の久しぶりの手料理を食べる。腹一杯食べてゲップ(ඉස්මොරුත්තාව)も出てしまう。母は構わず、どんどん皿に料理を盛る。コロンボでは貧しい食事しかしていないのだから、作ったものをいろいろ食べてもらいたいのだ。会話に出てくるアーッパ(ආප්ප)は発酵した米粉(හාල් පිටි)の生地、ココナッツミルク(පොල් කිරි)、ヤシ酒(රා)を材料に、クレープのように薄く円形に焼いて作る料理である(『アジアの食文化』建帛社)。
因みにシンハラ人の話では、息子がこの場面で食べている料理は、ご飯、ふかしたジャックフルーツ(කොස්)の入ったサラダ風野菜料理(කොල මෑල්ලුමක්)だそうだ。この野菜料理、マッルン(මෑල්ලුම්、複数形)というのは、野菜の生の葉に玉ねぎ、削った鰹節、削ったココナッツ、青唐辛子、ライム汁を混ぜて作る料理である(『アジアの食文化』建帛社)。味はさっぱりして、酸味がある。他のカレー料理の具が辛かったりすると、このさっぱりさと酸味がアクセントとなってきいてくる。筆者はゴトゥコラ(ගොටුකොල)の生の野菜料理が特に好きである。
"අනේ ඇති, අපේ අම්මේ. ඉස්මොරුත්තාවත් ඇවිත්."
"මං මයෙ පුතාට ආප්ප ටිකක් පුච්චලා දෙන්න, පිටි ටිකක් පිපෙන්න දැම්මා."
「もうたくさんだよ、お母さん。ゲップも出たし」
「アーッパをちょっと焼いてあげようと思って、米粉の生地を発酵して膨らむように置いてあるんだよ」
しかし、この母と子の深いつながりも絶たれてしまう。翌日の満月の日に、母が死後10年経つ夫のために尼僧の食事の世話をしに行っている間に、息子は人民解放戦線の裏切り者として殺されてしまうのである。
しかし、この母と子の深いつながりも絶たれてしまう。翌日の満月の日に、母が死後10年経つ夫のために尼僧の食事の世話をしに行っている間に、息子は人民解放戦線の裏切り者として殺されてしまうのである。
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