2012/06/30

盲人のヴィジョン--"හෙට මගේ පැල හෙවිලි දෙන්ඩ ඕනි."

スリランカで上映禁止されたプラサンナ・ビターナゲー監督(ප්‍රසන්න විතානගේ)の1997年作品『満月の闇』"පුරහඳ කළුවර"の冒頭付近の場面。

乾季により雨が降らず、貯水池にはほとんど水が残っていない。そこへ故ジョー・アベービクラマ(ජෝ අබේවික්‍රම ​Joe Abeywickrama、2011年9月21日死去)演じる盲目の老人が覚束ないが、確かに行くべき場所がわかっている足取りで枯れかけの濁った貯水池にたどり着き、水を甕に汲む。それを見た末娘と結婚する予定の男、ソーマーが老人に話しかける。


"වන්නි හාමි මාමෙ, කිව්වා නම් මං වතුර බෝතලයක් ගෙනත් දෙනවා නෙ."
"උඹ හිතුවා ද​ බොල මට​ අංසබාගෙ කියලා?"


 「ワンニハーミおじさん、言ってくれていたら水を持って行ってあげましたのに」
「おいおい、この俺を障碍者とでも思ってんのか」

若者が空を見上げても見えないものが、老人には見える。長年の経験上、体の感覚として雨が降ることを予見することができる。


"සෝමෙ ලමයෝ, හෙට මගේ පැල හෙවිලි දෙන්ඩ ඕනි."
"මේ අවු කාස්ටකෙ?"
"මේ යන විදිහට තව හතරදෝකින් වහිනවා."

「ソーマー、明日うちの屋根を葺いてくれないとな」
「このカンカン照りでですか」
「このままいくと、あと4日で降り出すよ」


雨が降り出す前に屋根葺きを終えておかなければならない。 頼まなければならないことは屋根葺きであって、水汲みではない。そして老人の予言通り、激しい雨が降り出すのである。

盲人の老人には明確なヴィジョンがある。国家権力でLTTE(タミル・イラーム解放の虎)との戦争に動員された老人の息子は戦死したとされ、棺に納められ帰ってくる。しかし、老人はそのヴィジョンで村中の人を驚かす行動をとり、その正しさを立証するのである。


取引、交渉、関係、因縁 -- ගනුදෙනුව

'ගනුදෙනුව'というシンハラ語はテレビドラマ『マリー』"මලී"でよく使われ、様々な意味合いで用いられる言葉である。

ビジネスであれば、お金のやり取り、商売の取り引きの意味で用いられる。お金と物の交換となる。

次のは、ガヤーンにお金の工面をしてほしいと頼まれたと信じたマドゥランギーがガヤーンの義理の姉のサロージャに言った言葉。ここでの'ගනුදෙනුව'とは、相手の借金を支払ってあげることを意味する。
"ගයාන්ට කියන්න​, කොහේවත් යන්න එපා කියලා. මොකද​, මේ ගනුදෙනුවෙන් පස්සෙ, මේක ඉවරයක් වෙමු." 『マリー』මලී 357話

「ガヤーンに言って、どこにも行かないようにって。ていうのは、この取り引きで今までのことは終わりにしようと思っているんで」 


次の例では、'ගනුදෙනුව'は人と人との交際、付き合いという意味である。サーリヤは妻の兄であるナワラトナと関係がこじれて口をきかない状態にある。妻は間をとりもとうとしたのに対して、サーリヤは次のように言う。


"බැරිවෙලාවට නවරත්නට මං කතා කරන්නෙ, නවරත්න මගෙන් සමාව ගත්තාට පස්සෙ. හරි? එතකම් මං ඒ මනුස්සයාත් එක්ක ගනුදෙනුවක් නෑ." 『マリー』මලී 357話

「仕方なくナワラトナと口をきくのは、ナワラトナが許しを乞うてきた後だ。いいか。それまであいつとは一切関係を持たないからな」 

人と接する場合には、よく考えて言葉の使い方、行動の仕方を考えなければならない。次の例は、サーリヤが医術や呪術において大きな力を持つディンギリとの接し方('ගනුදෙනු කරනවා')について語った言葉。

"ඒ ගෑණිත් එක්ක ගනුදෙනු කරන කොට ටිකක් පරිස්සමින් ගනුදෙනු කලොත් තමයි හොඳ​."『マリー』මලී 262話
 「あの女と接するときは少し慎重に接するのがいい」

人との関係はうまくいくとは限らない。問題が生じる場合がある。 ディンギリがウックワとの関係で生じた問題、つまり、因縁についての話が次の例である。

"උක්කුව ගෙ මගෙ අතර වෙච්ච පොඩි ගනුදෙනුවක් නෙ."『マリー』මලී 262話
 「ウックワと私の間にある小さな因縁なんですよ」


 因縁というのは、いつかはけりを、決着をつけ、ちゃらにしなければならない、清算しなければならない('බේරගන්නවා')。次の会話は、サーリヤと妻の兄であるナワラトナとの間には、プラマイゼロにしなければならないようなお金の貸し借りや因縁が存在しているという話だ。

"ඔයාටයි මටයි බේරගන්න ගනුදෙනු ගොඩක් තියෙනවා. ඒව මං කොන්ක්‍රීට් එකක් දාලා, වහලා තියෙන්නෙ."『マリー』මලී 338話
「ナワラトナと私の間には けりをつけなければならない因縁がたくさんあって、それをコンクリートで固めて見えないようにしてあるんだ」

人と人との関係は持ちつ持たれつだ。しかし、相手にしたこと、されたことは互いの関係に影響を及ぼし、関係がこじれたときには、それが表に浮上してきて、清算しなければならない時が来るのである。

2012/06/28

誤解しないでくれ--"මොකුත් වරදවා තේරුන් ගන්ඩ එපා"

これから話すことを間違って受け取らないようにと相手に言うときはシンハラ語でどう言えばいいだろうか。

次のようにවරදවා「間違って」と තේරුන් ගන්නවා「理解する」「意味を取る」を用いて言えばよい。


"මොකුත් වරදවා තේරුන් ගන්ඩ එපා, ඩග්ලස් මුදලාලි."  (යශෝදරා 第1話)


「絶対誤解しないでくださいよ、ダグラスさん」 

相手の感情を害する恐れがあることを言う前にこの表現を使うことでワンクッション置くことになる。

1977、市場開放経済、仲人仲介料--ඉස්තූතිවලට වැඩ කෙරුවෙ, ලොකු නෝනා, එක්දාස් නමසීය හැත්තෑ හතෙන් ඉස්සෙල්ලා.

テレビドラマ『月を空は愛している』(සඳට අහස ආදරෙයි)34話で縁談を仲介する仲人(කපු මහත්තයා)はこう話す。
 
"මට මේ කටයුත්තෙ දෑවැද්දෙන් සීයට දෙකක් හම්බ වෙනවා නෙ. ඒක මට හොඳටම ඇති. ඉස්තූතිවලට වැඩ කෙරුවෙ, ලොකු නෝනා, එක්දාස් නමසීය හැත්තෑ හතෙන් ඉස්සෙල්ලා. එක්දාස් නමසීය හැත්තෑ හතෙන් පස්සෙ, හැම මිනිහාම වැඩ කරන්නෙ සල්ලිවලට."

「この縁談の持参金から2%、いただけますから。それで本当に十分です。 相手の感謝に仕事をしたのは、1977年までです。1977年の後は、みんなお金のために仕事をするようになりました。」

この仲人さんの老人の言葉は、1977年が人々の価値観が変化した重要な年であるということを意味する。1977年は、当時のJ.R.ジャヤワルダナ大統領が社会主義経済から市場開放経済に政策を転換した年である。 この年以降、人々はお金に換算して物事を行うようになり、縁談の仲介もそのうちの一つとなったのである。

許可する--දැන් දෙන්නාටම යන්ඩ පුලුවන්.

相手に「~してもいい」と言って許可する場合の表現。


次の例では、取り調べを受けていた兄と妹に対して警官が帰る許可を与えている。

"දැන් දෙන්නාටම යන්ඩ පුලුවන්."   (යශෝදරා 第2話)

「もう二人とも帰っていいですよ」

動詞不定形 -න්න​/න්ඩ​/න්ට​ +පුලුවන් は能力を表すだけではなく、状況可能の意味もある。上の例であれば、警察で取り調べる必要がなくなったために、帰るという行為を阻害する要因がなくなり、帰れる状況になった場合に許可を与える意味に使用できる。

2012/06/26

『月を空は愛している』(සඳට අහස ආදරෙයි)--冤罪?、キリスト教、紅茶プランテーション、タミル人労働者

スリランカ国営放送局で2012年4月より放映されている『月を空は愛している』(සඳට අහස ආදරෙයි)は、高地の紅茶プランテーションを舞台とするドラマである。第1話の冒頭、トゥシャーリ(තුෂාරි)が自分の愛したプラビーン(ප්‍රවීන්)を殺した罪で起訴され、終身刑を宣告される。その後、刑務所に収監された後、精神のバランスを崩し、口を閉ざし、精神病院に入る。トゥシャーリとプラビーンの関係を知った精神科の医者は判決に疑いを持ち、催眠療法によりトゥシャーリの閉ざされた心の中に入り、隠された秘密を解き明かしていく筋となっている(第4話)。果たして本当にトゥシャーリはプラビーンを殺したのだろうか、何か大きな秘密が隠されているのだろうか。

宗教的なバックボーンは主人公たちがキリスト教信者であるため、キリスト教である。紅茶プランテーションで働く労働者はタミル人で、安い賃金で働かされている。タミル人労働者は賃上げのストライキを行う。キリスト教の教えをもとに労働者側に立って仕事をするプラビーンは、とうとう職を失ってしまう。

更には自分の傾いた家の経済を立て直すため、裕福な家庭の娘と結婚を決断し、トゥシャーリとの関係を清算してしまう。裕福な相手家族の持参金(スリランカでは結婚の際、女性側が男性側に財産を渡すことになっている)により家の経済を立て直すことができるし、相手の娘にとっては自分のビジネスのパートナーになってもらうことでビジネスを更に発展させることができると考えているのである。

我々が飲むセイロン・ティーのローカルとグローバルな背景の一端を教えてくれるドラマかもしれない。

2012/06/23

大菩提樹、サンガミッター比丘尼、比丘尼サンガ--ශ්‍රී මහා බෝදි වහන්සේ, සංගමිත්තා මෙහෙණි වහන්සේ


2007年制作のシンハラ映画『ウッパラワンナー』(උප්පලවණ්ණා)には、古都アヌラーダプラの大菩提樹を訪れた際、長老尼(ලොකු මෙහෙණිය)​が他の尼僧に次のように比丘尼サンガの起源を振り返る場面がある。


"ඔන්න දැන් අපි ශ්‍රී මහා බෝදි වහන්සේට ​සිවුරක් පූජා කලා. මෙහෙණිවරුනි සිහිපත් කරගන්ට​, ලංකාවට මේ ශ්‍රී මහා බෝදි වහන්සේ වැඩෙම්මපු, ලංකාවෙ මෙහෙණි ශාසනය​​ පිහිටව​පු සංගමිත්තා මෙහෙණි වහන්සේව​."

 「さて今、大菩提樹への袈裟の寄進を終えたところです。尼僧たちよ、忘れてはならないのは、スリランカにこの大菩提樹を持っていらっしゃり、スリランカに比丘尼の教えを確立したサンガミッター比丘尼様のことを」

インドからサンガミッター比丘尼がスリランカに大菩提樹の分枝を持ちより、比丘尼サンガを確立したのは、紀元前3世紀のことである。その分枝の成長した大菩提樹は今も古都アヌラーダプラで崇拝されている。

この起源はシンハラ仏教徒にとっては最も重要な記憶である。

天と地は交わらない--අහසයි පොලවයි එකතු වෙන්නෙ නෑ නෙ.


 シンハラ映画『ウッパラワンナー』(උප්පලවණ්ණා)にシリ(සිරි)の父が息子に会いに来たウプリ(උපුලි)に息子への想いを諦めるように諭す場面がある。

"උපුලි නෝනා, මට උපුලි නෝනාට කියන්ට වැදගත් කාරනාවක් තියෙනවා. අපේ පුතා ගැන උපුලි නෝනාගෙ හිතේ යම් අදහසක් තියෙනවා නම්, අත්හැර​ දාන්ට​. ඕව කවදාවත් කෙරෙන දේවල් නෙවෙයි. අහසයි පොලවයි එකතු වෙන්නෙ නෑ නෙ."

 「ウプリさん、あなたに話したい大事なことがあるんですが。ウプリさんの心の中に息子への想いが何かあるのであれば、諦めてください。それは決して実を結ぶものではありません。天と地は一緒にはなれないんですよ。」

天(අහස)はウプリ、地(පොලව)はシリ。出自の差が天と地ほどの差があり、住む世界が違うというのである。天と地は決して交わることはない。

二人の行く末を案じる父の忠告であり、悲劇の予見である。


高地シンハラと低地シンハラ、パッティニ女神--මේ නැටුමෙ දී පහත රටට එන්ට වෙනවා.


シンハラ映画『ウッパラワンナー』(උප්පලවණ්ණා)の印象的な踊りの練習のシーン。

主人公ウプリ(උපුලි)が踊りを習っている場面で恋人のシリ(සිරි)の父親にこう言われる。


"නෑ, පොඩි නෝනා. තවම ඔබතුමියගෙ ඇඟට මේ නැටුමෙ ගැම්මෙ ආවෙ නෑ. ඔබතුමිය උඩරට මැණිකෙ කෙනෙක් බව හැබෑව​. ඒත් මේ නැටුමෙ දී පහත රටට එන්ට වෙනවා. මේ නැටුම පත්තිනි දෙයියන් ගෙ නැටුම​. පතිව්‍රතාව​ට​ අධිපති දෙවි අංගනාව."

 「違います。まだこの踊りのコツをつかんでいませんね。高地出身のお嬢さんであることは確かにそうですが、この踊りでは低地に来なければなりません。これはパッティニ女神の踊りです。貞操を司る女神なんです」


パッティニ女神の踊りの持つエネルギー、パワー(ගැම්ම​)がウプリの体(ඇඟ​)に入ってきていないと指摘する踊りの師匠。その原因がウプリが高地(උඩරට)出身のカーストの高いお嬢さん(මැණිකෙ කෙනෙක්)であること、すなわち、出自の違いによるものであることを示唆している。そして出自の違いにもかかわらず、踊りを自分のものにするためにはその違いを超えて低地(පහත රට)に降りてこなければならないこと(動詞不定形+助動詞 -න්ට+වෙනවාはそうせざるを得ない状況を表す) を言っている。パッティニ女神が夫への貞操の象徴であることを考えても、相手に合わさなければならないのである。


スリランカの低地地方は、早くにヨーロッパ列強の植民地支配を受けたのに対して、高地地方は大英帝国の支配を受けるまで長きにわたり植民地支配を受けなかったために、高地が低地よりも上であるという意識が歴史的に存在している。

また、ウプリの父親は医者であり、カーストが上であるのに対して、恋人のシリは太鼓カーストという低カーストである。

このように二重の出自の違いが後の悲劇へとつながり、ウプリの出家へとつながっていくことの一端を告げる重要なシーンである。

1985、大菩提樹、LTTE--ඩිංගිරි නැන්දාට ජාති ආගම් කුලමල​ බේධයක් තිබ්බෙ නෑ.

スリランカからの分離独立を目標とする武装過激派LTTE(タミル・イーラム解放の虎)がアヌラーダプラを初めて攻撃し多数の死傷者が出た事件が1985年にあった。 この事件を背景にした会話が『マリー』(第15話)にある。

以下の会話ではピヤラトナがアヌラーダプラに近い彼の村にLTTEが攻めなかった理由について述べている。


නිර්මාල්: මලීගෙ අප්පච්චි නැති වුනේ මොන වෙලා​ ද​?
පියරත්න​: ශ්‍රී මහ​ බෝදියෙට කොටි ගහපු වෙලා තමයි උන්නැහෙ නැති වුනෙ.

නිර්මාල්: යුද්දෙ කාලෙ කොටින් ගෙන් මේ ගමට ගොඩක් කරදර වෙන්ඩ ඇති නේද​?
පියරත්න​: කොටි අපේ ගමට කරදර කරන්න ආවෙ නෑ, මහත්තයෝ. ඒකටත් හේතුව ඩිංගිරි නැන්දා.
නිර්මාල්: ඩිංගිරි නැන්දා? ඒ කිව්වෙ?
පියරත්න​: ඩිංගිරි නැන්දාට ජාති ආගම් කුලමල​ බේධයක් තිබ්බෙ නෑ. ඩිංගිරි නැන්ද ලඟට එන්න ඕනම කෙනෙක් ඩිංගිරි නැන්දට රෝගියෙක් විතරයි. වෙදි කාලා ආපු කොටින්ටත් ඩිංගිරි නැන්දා බෙහෙත් කලා. ඒ හින්දා කොටි අපේ ගමට කරදර කරන්න ආවෙ නෑ.

「マリーのお父さんが亡くなったのはいつのことですか」
「大菩提樹にLTTEが攻撃を加えたときにマリーのお父さんは亡くなったんです」
「戦争のとき、LTTEのせいで村はとても大変だったんでしょうね」
「いえ、LTTEは村に面倒を起こすようなことはしませんでしたよ。それもディンギリおばさんのおかげです」
「ディンギリおばさんが?どういうことですか?」
「ディンギリおばさんには民族も宗教もカーストも関係ありません。ディンギリおばさんのところにやってくる人はみなディンギリおばさんにとっては病人だけなんです。弾を撃たれてやってきたLTTEの兵士もディンギリおばさんは治療したんです。だから、LTTEはこの村に手を出さなかったんですよ」

スリランカにおいては民族、宗教、カーストの違いが様々な問題を生み出しているが、こうした違いにより相手に対して差別的な扱いをしないという理想的な姿がディンギリに描かれている。

ブッダが菩提樹の下で悟りを開いたために、シンハラ仏教徒にとっては古都アヌラーダプラにある大菩提樹(ශ්‍රී මහා බෝදිය​)は聖地である。この聖地に攻撃を加え非戦闘員の民間人を殺害したLTTEの兵士に対しても治療をしたということで、LTTEにも高く評価され、その結果、村全体を守ることにつながったのである。


2012/06/18

占星術 ග්‍රහයෝ නීච වෙන කාලෙ

人の人生はうまくいくときもあればうまくいかないときもある。そうした人生の浮き沈みに影響を及ぼすものとして星が関係すると考える思想がある。

『マリー』(第2話)に大臣のハンダパーンゴダと医薬品製造業社長のラージャラトナのやり取りに以下のがある。

හඳපාන් ගොඩ:ලෝකෙ ග්‍රහයෝ කී දෙනෙක් ඉන්නවාද​?
රාජරත්න​:ඇමතිතුමා, නමයයි නෙ.
හඳපාන් ගොඩ:නමයයි? අන්න ඒ නමයයි. ඒ නමය​ නෑදෑයෝ සෙට් වෙලා තමයි තමුසෙට නීච වෙලා තියෙන්නෙ.

「世界には惑星がいくつありますか」
「大臣、9つですね」
「9つ。 そう、その通りです。この9つの親戚が一緒にみんな、あなたの場合、落ちているんですよ」

ここでは惑星全部がよくないと言って、相手を皮肉っている。

現代の天文学とは異なるが、占星術でいうග්‍රහයෝ(惑星)というのは9つで、太陽(රවි), 月(චන්ද්‍ර)​,火星( කුජ=අඟහරු))​, 水星(බුධ)​, 木星(ගුරු), 金星(ශුක්‍ර=සිකුරු)​, 土星(ශනි=සෙනසුරු), ラーフ(රාහු)、 ケートゥ(කේතු)である。

ラーフとケートゥは実は天体ではない。悪魔であるラーフが不老不死の命の水(nectar)を飲もうと変装し忍び込んだところ、ヴィシュヌ神に見つかり、頭部と尻尾に切られてしまった。その頭部をラーフ、尻尾をケートゥと呼ぶ。ラーフはその体により太陽と月の光を遮り、日食と月食を引き起こすと考えられている(ラーフとケートゥについてはhttp://jyotisharavi.blogspot.jp/2010/11/solar-moon-eclipses-happen-because-of.html参照)。

文法について言うと、惑星の数を聞くのに、දෙනෙක්(~人)が用いられている。これは通常、人に関して用いられる類別詞で、日本語の類別詞「~人」に相当する。命あるものの存在に"ඉන්නවා"(いる)がないものに"තියෙනව​"(ある)が使用される。人に用いられる類別詞と動詞が惑星にも使えるのは、興味深い。

同じく第2話。
හඳපාන් ගොඩ: කේන්දරේ ගෙනාවාද​?
රාජරත්න​: නෑ, ඇමතිතුමා.
හඳපාන් ගොඩ: මොකද කේන්දරේ ගෙනාව නම් තමුසෙගේ මේ මනුස්සයාට කියලා බලවන්න පුලුවන්. ග්‍රහයෝ නීච වෙන කාලෙට තමයි නරක කාලෙ උදා වෙන්නෙ.

「天宮図を持ってきましたか」
「いえ、大臣」
「いや、持ってきていれば、あなたの天宮図をこの人に占ってもらえたのに。惑星が悪い状態のときというのは、悪い時期が訪れているということなんですよ」 


大臣はラージャラトナの天宮図がどうなっているかは知らないが、星の話を持ち出して相手を口で攻撃し皮肉っている。


2012/06/17

伝統医学―惑星の動きと治癒

『マリー』(第15話)でディンギリが治療と惑星の動きと病気の回復との関係について述べている場面がある。

下半身が動かなくなった大臣の夫人をディンギリが治療した結果、回復した。 その奥さんに対してディンギリが次のように言う。


"නෝනාගෙ ග්‍රහචාරෙ හොඳයි. ඒකයි නෝනට සනීප් වුනේ. නැත්තම් අපි කොච්චර බේත් කලත් නෝනගෙ ග්‍රහචාරෙ හොඳ නැත්තම් ලෙඩෙක් සනීප කරන්ඩ අමාරුයි."

「奥さんの惑星の動きがいいので、よくなったんですよ。そうでなければ、どんなに治療しても惑星の動きがよくなければ病気を治すことは難しいです」

伝統医学においては病気の治癒には治療方法や医者の腕だけでなく、患者の惑星の運行も大事だというのである。

2012/06/16

瞑想の5つの題目 "kesa, loma, nakha, danta, taco"

シンハラ映画『ウットパラワンナー』で主人公ウプリが出家の儀式で髪を切る場面がある。大女優マーリニー・フォンセーカー(මාලිනී ෆොන්සේකා)演じる長尼僧නායක මෙහෙණිය)が主導僧として白衣を着たウプリの前髪にハサミを一つ入れる。その切った髪をウプリが両手に受け取り、次のようにパーリ語を三唱する。

"kesa, loma, nakha, danta, taco"
"kesa, loma, nakha, danta, taco"
"kesa, loma, nakha, danta, taco"

「頭髪、体毛、爪、歯、皮膚。頭髪、体毛、爪、歯、皮膚。頭髪、体毛、爪、歯、皮膚。」 

南伝上座仏教における瞑想の5つの題目とされるもの。

頭髪、体毛、爪、歯、皮膚はいずれも身体と外の世界との境界に存在する。とりわけ、皮膚は身体の内と外の境界に位置し、これなくしては生きることはできない。

そして、これらの存在で我々は気づくのである。全ては移りゆき、変化していくことを。無常を。

女性の5つの美(පඤච කල්‍යාණය​)と同様、5で概念がまとめあげられている。

女性の5つの美 පඤච කල්‍යාණය​


シンハラ映画『ウットパラワンナー』"උප්පලවණ්ණා"(සුනිල් ආරියරත්න監督)に主人公のウプリ(女優සංගීතා වීරරත්න)が念入りに鏡の前に座り髪を梳いているところに母が呼びに来て話をする場面がある。
අම්මා: කොණ්ඩට සාත්තු කරනවාට වැඩියෙ වැඩක් නැහැ නේද​, ඔයාට​.
උපුලි: කේශ​ කල්‍යාණෙ කියන්නෙ පඤ්ච කල්‍යාණිය​න්ගෙන් එකක් නෙ​, අපේ අම්මා.
「髪の毛のケアより大事なことって他にないようね」
「髪の毛の美というのは女性の5つの美のうちの一つよ、お母さん」 

女性の5つの美とは、髪(කෙසකල්‍යාණය)、肉付き(මාංස කල්‍යාණය)、骨格(අටේකල්‍යාණය)、肌(ඡවිකල්‍යාණය)、若さ(වයකල්‍යාණය)のことである。 

この家の中の髪を梳かす暗いシーンは後の出家の儀式におけるウプリの剃髪する美しい場面と呼応する。

2012/06/14

断り方--දැන් එන්න වෙන්නෙ නෑ.

相手に誘われた時などに事情があって行けないという時にはどう言えばいいだろうか。シンハラ語では、動詞不定形+වෙන්නෙ නෑで表現できる。

[電話で]
ඉරුගල් බණ්ඩාර​: නෝනාලා මේ පැත්තෙ එන්නැද්ද​?
චිත්‍රාංගනී: අනේ සභාපතිතුමා, දැන් එන්න වෙන්නෙ නෑ. අපි වෙන වෙලාවක එන්නම් කෝ. (『マリー』104話)


「みなさん、こちらに来ることはありませんか」
「あのー、今は行けませんが、別の機会に伺いますね」

'වෙන්නෙ නෑ'という表現は、事態を実現する状況にはないということを表す。例えば、相手のところに行くという意思があっても、行くための条件が揃わないと行きたくても行けない。この表現は間接的な断りとして用いることができる。一方聞き手のほうは、相手に何らかの事情があって来られないのだということを察することができる。

次の例では、具体的に行けない状況について述べられている。

[電話で]
දේවානී: මධුරංගී, මේ, ගයාන් දහයට usual restaurant එකට එන්නම් කිව්වා.
මධුරංගී: ඔයාත් එනවා නෙ.
දේවානී: ආ, මට නම් එන්න වෙන්නෙ නෑ.
මධුරංගී: ඇයි ඒ?
දේවානී: එක​. ගයාන්ට ඔයාත් එක්ක තනියෙම කතා කරන්ඩ ඕන ලු. දෙක​. මං ඒ වෙලාවට channel එකෙ ඉන්ඩ ඕන​.
මධුරංගී: Ok. Ok. Bye.
「マドゥランギー、あの、ガヤーンが10時にレストランに来ると言っていたよ」
「あなたも来るよね」
「えーと、私は行けないのよ」
「どうして」
「一つ目。ガヤーンはあなたと二人で話したいって。二つ目。10時に番組にいないとだめなの」
「わかった。バイバイ」 ( 『マリー』345話)

2012/06/09

お父さん"අප්පච්චි"

スワルナワーヒニ・テレビ(ස්වර්ණවාහිනි)で放映されているドラマ『お父さん』 'අප්පච්චි'にテレビでは15年振りの出演となる主演男優ジャクソン・アンタニー(ජෑක්සන් ඇන්තනි)がインタビューで ドラマの題名である'අප්පච්චි'のことばの意味について以下のように述べている。

"මට මගේ දරුවො කතා කරන්නෙ අප්පච්චි කියලා. ඊට අමතරව මගේ දරුවන් ගෙ යාළුයි මිත්රුයි මට කතා කරන්නෙ අප්පච්චි කියලා. මං ඒ වචනෙට අතීත ඉඳලාම හරිම ආදරෙයි. මේක මේ, උඩරට සමාජයෙ භාවිතා වෙන වචනයක් වුනාට අපි කවුරුත් මේ වචනෙට හරිම ආදරෙයි. මේක මේ, අපේ කාගෙත් බලාපොරොත්තුවේ සංකේතයක් වගේ. ඒ තුල හුඟ​ක් ගැඹුරු අරුත් තිබෙනවා. නිකන්ම නිකන් දරුවන් ගෙ පියා කියනවාට වඩා ඒ අප්පච්චි කියන රූපකෙ බොහෝ ගැඹුරු අරුත් මේ අපේ සංස්කෘතියට​ සම්බන්දව වර්තමානෙ ඇතුල් තිබෙනවා. මං හිතනවා, මේ මේ කතා ප්‍රවෘතියත් එක්ක ගොඩ ගන්නෙ ඒ සම්බන්දකම කියලා."(26.05.2012, Appachchi, www.swarnavahini.lk)
「子供は私のことをඅප්පච්චිと呼んでくれますし、子供の友達もそうです。අප්පච්චිということばは昔から大好きです。このことばは、あの、高地社会で使われることばですが、みんな好きなことばです。誰にとっても希望のシンボルのようなもので、非常に深い意味があります。ただ普通にපියාと呼ばれるよりもඅප්පච්චිと呼ばれるほうが、そのことばの形の非常に深い意味が、その、我々の文化と関わる現在に存在します。このドラマの筋とともに顕わになるのがこの関係性だと思います。」

පියාඅප්පච්චිも父を表すが、前者が書き言葉である。話し言葉で用いられるのは他にතාත්තාがあるが、අප්පච්චිのほうが情愛の意味合いが深い。

2012/06/08

「この世界」'මේ ලෝකෙ'

『マリー』(මලී)の第341話(episode 341)。

නිර්මාල්: මධුරංගීලා කියන්නෙ ඔය ගයාන් කියන මනුස්සයා බොරු විවාහ​ සහතිකයක් හදලා මට ෆැක්ස් කලා කියලයි.
මලී: ඉතින් එහෙම බොරුවට බඳින්න පුලුවන් ද, මහත්තයා?
නිර්මාල්: මේ ලෝකෙ ජීවත් වෙන මිනිස්සු මොන තරම් ඇත්තට කරන දේවල් බොරුවටත් කරනවා ද​, මලී.
මලී: මේ ලෝකෙ හරි පුදුමයි නේද, මහත්තයා.

  
ニルマール「マドゥランギーらは、このガヤーンという人が偽の婚姻証を作って僕にファックスしたと言うんだ」
 マリー「そんな嘘の結婚ができるんですか」
ニルマール「この世界で生きている人間は本当のことをないことにしてしまうんだよ、マリー」
マリー「この世界って本当にびっくりしますよね」 


二人が使っている'මේ ලෝකෙ'「この世界」ということば。'මේ'が指しているのは二人が「いま・ここ」で生きている世界。そして、'මේ ලෝකෙ'はシンハラ仏教徒においては前世と来世の間にある世界である。'මේ'と指すことで、他の世界の存在が喚起されるのである。

但し、この二人は周りに隠れて駆け落ちしようとして失敗している。このことは母であるディンギリには隠し、結婚しようとしている。 හරි පුදුමයි නේද?

2012/06/03

入札කොන්තරත්


「マリー」の第1話にニルマールが村に赴任して、ドライバーのグナパーラの運転で村を回る場面がある。その時の道路に関する会話が以下のもの。

නිර්මාල්: ආන්ඩුවෙන් මේ පාර හදන්න පස් වතාවක් සල්ලි වෙන් කරලා තියෙනවා.
ගුණපාල​: මහත්තයා, සභාපති ගෙ මිනිස්සු මයි කොන්තරත් ගන්නෙ. වලවල් වැහෙන්ඩ​ උඩින් බොරලු ​ටිකක් දානවා. එක වැස්සක් ගිහිල්ලා අත් ට්‍රැක්ටර් දෙකක් ගියාම ආයෙත් ඒ වගේම හෑරෙනවා.



ニルマールが「政府は5回もこの道路工事に予算を取っているんだけど」と言ったのに対し、運転手のグナパーラが「議会議長側の人が入札を取るのですけど、でこぼこ道を直すのに砂利をまいただけで、一雨来てトラクターが2台通り過ぎると、またでごぼご道に戻ってしまうんですよ」と答えている。

地方の有力者である政治家と土建屋が結びついて公共工事から利益を得る構造が暗示される。日本と同様、中央に集まった富が地方に再分配される過程において公正さが担保されていないという問題が存在する。

ニルマールが正義の味方として不正をなくす行政を行うストーリーが展開されると予測されたが、その後のストーリー展開はそうではなかった。入札が公正に行われるように試みる話がその後出てきたことは出てきたが、マリーとの恋愛話が主旋律となり、どこかへ消えてしまった。仕事を抜け出しては林の中でマリーと逢引きをしていたりして、公私混同の話になっていったのは残念。

シンハラ語キーボード

オンラインのシンハラ語キーボードにはLEXILOGOSコロンボ大学のもの、mylanguages.orgのもの、branah.comのもの、Googleのものがある。

私の場合、シンハラ語の入力は、LEXILOGOSのシンハラ語キーボードを使っている。このソフトは多言語キーボードで便利である。


ここのサイトでキーボード入力したのをコピーしてワードなどに貼付けて使っている。ブログでのシンハラ語フォントの見え方は、Macの場合、Safariでは結合文字がきれいに表示されない。Firefoxできれいに表示される。

入力方法はWijesekara Keyboardの入力方法とは異なり、基本的にローマ字入力方式なので、使いやすい。入力方法は上記のサイトに記載されているが、記載されていないものもある。

1)  සම්බන්ධの場合は、සම්+スペース+බන්+スペース+ධ​の順番で入力し、あとでスペースを削除。

මලී「マリー」

昨年の12月から見始めたテレビドラマで毎回欠かさず見ているのは、'මලී'(「マリー」)。これはスリランカのDerana放送局で2011年より放映されているテレビドラマ。既に300回を超えている(6月1日現在で338回)。毎週月曜日から金曜日まで夜の9時から放映されており、一回の放送が実質20分もない。

このドラマは北中部アヌラーダプラに近いムドゥナーガラමුදුනාගල​という村を舞台に、自分自身の欲望を実現するために人間がとる行動の様々な類型を描いている。都会のコロンボから田舎のムドゥナーガラの役所に赴任した役人ニルマールනිර්මාල්とそこの伝統医学者ディンギリඩිංගිරිの一人娘のマリーමලීとの結婚が中心の筋となり、それを邪魔したり支援したりする人間模様が錯綜する。

特にディンギリと対立する祈祷師ウックワඋක්කුවා(昔ディンギリに結婚を申し込んだが断れた)の祈祷、呪術対決はこのドラマのハイライトシーンとなっている。その他にも大臣のハンダパーンゴダහඳපාන් ගොඩ​と医薬品製造業社長のラージャラトナරාජරත්න(元々大臣の支持者)の対立、ディンギリの伝統医学の秘伝を盗み外国に売って一儲けを企んだラージャラトナの一人息子ダヌシャカදනුෂකの行動、大臣の隠し子アミラඅමිල​との結婚を画策するラージャラトナ親子の行動、ニルマールの許嫁マドゥランギーමධුරංගීの父親サーリヤසාලිය​と大臣の対立、ウックワを助ける悪魔や死霊とディンギリの対決などの伏線が物語を駆動していく。

こうした人間関係の背後には、今日的な諸問題、すなわち、都会/田舎、シンハラ/タミル、西洋医学/伝統医学、グローバリズム/ナショナリズム、生者/死者、健康/病気、繁栄/没落、愛/憎しみ、正義/腐敗、家族愛/正義といった要素が横たわっている。
ニルマールとディンギリ(http://www.derana.lk/より)

但し、話の99%は主人公たちの働く姿がないので、一体この人たちの職業は何だろうと思うこと請け合いだが。



2012/06/02

スリランカの映像サイト

スリランカ(ශ්‍රී ලංකාව​)では様々な言語が話されている。その中の一つにシンハラ語(සිංහල​)という言葉がある。そのシンハラ語で制作されているテレビドラマや映画、それからシンハラ語の表現について、このブログで紹介していこうと考えている。

テレビドラマは様々な放送局で放映され、各放送局のホームページにアップロードされている。スリランカ国営放送局(Rupavahini)、ITNSirasa TVDerana などがある。これらのテレビドラマや映画などをアップしているサイトにはLKVideosなどがある。

Colonial Film: Moving Images of the British Empireには大英帝国時代の植民地の貴重な映像が収録されている。非常に興味深い。

現在、スリランカのニュース、テレビドラマ、映画などが簡単に見られる環境があり、スリランカの社会、文化、歴史、政治状況に関する情報が格段に入手しやすくなっている。こうしたツールを活用することは、シンハラ語の学習をしたり、シンハラ人の思考・行動様式の理解を深めたりするのに一つの有効な手段となるであろう。